結婚しようぜ!後悔はさせる自信がある
結婚願望を抱いている人物はすべからくエゴイストである、もちろん結婚願望を抱かないものでもその他、様々な願望や欲望をその内部に内方しているので最終的な割合で言えばまったくもってどうしようもないエゴイストであることには変わりはないのであるがソレでも結婚を望む人物ほどの強烈なエゴイズムを振りかざすような存在では無い。何故ならば誰かとの結婚を望むというような行為は他人の人生をどうにかしようと願い実現させようとする行為に他ならない、つまるところ要するに『お前の事が俺は好きなんだ、だから俺のためにとりあえず俺かお前のどちらかが死ぬまで俺のために味噌汁を作って欲しい(^u^)』なんて事を相手に要求しているのだからまったくもって度し難い行為と言えるだろう、たかが味噌汁一杯に人の人生が乗っかっているのだからなんとも罪深いではないか。
結婚に耐えうるだけの器
例えば、例えばの話だが仮に二人の健全な男性と女性が結婚するに至るだけの事実が存在する場合、何をどうやったてそのような『結婚する』という結果に行き着いてしまったのかを一度深く考察してみよう、まずそもそも結婚という事象が成立するに足る条件には少なくとも結婚の対象となる雄と雌のつがいが必要になる、そしてその結婚した事実を観測するための第三者ないし第三の群体が必要だ。そしてこの2体のつがいが結婚という行動にシフトアップするためには恋愛感情などのリビドーによる精神的な高ぶりを必要とする。要するに俺の嫁(仮)が好きで好きでたまらない、という勘違いがどうしたって必須になってくるのである。しかしココで一つの疑問が湧いてくる、ソレはそもそも好きならば何がなんでも結婚しなければならないのだろうか?好きなら好きのまま同棲でもすれば良いではないか。
結婚に望むべき答え
結局我々が各自で結婚に望むものとは、必ずしも統一された一つの事柄ではないが多くの場合が『愛』『金』『肉体』の3つのうちのどれかである可能性がほぼほぼ最高値である。つまり要するに結婚するためには以上の愛、金、肉体のウチのどれかが飛び抜けていれば有利であると言う事で、結局我々が人類と言うなの枠組みの中に閉じこもっている以上、自身の中に芽生える欲望の種類も所詮はたかが知れると言う事だな。結局ペラ紙1枚でできる結婚と結ばれた絆なんてものは最後にはペラ紙1枚で解消できるのだから本当に結婚なんてものはする必要性などあるのだろうか?